本文へ移動
会員登録

じんけん放話17:79年目の夏

戦後79年目の夏を迎えています。広島と長崎で開催される平和記念式典は夏の恒例行事となっています。被爆者2世である私は8月6日、鳥取市内で開催された「鳥取県原爆死没者追悼・平和祈念式典」に出席しました。

 鳥取市で毎年行われている式典に私が始めて出席したのは12年前。そのころ、参加者は50名ほどいたと記憶しています。会場入口の受付には参加者が列をなしており、1年に一度この会で顔を合わせる人々が、お互いに元気な姿を確認し合い抱き合う姿も見られました。しかし、この10数年の間に高齢であった多くの被爆者が鬼籍に入り、また、会場まで足を運べない方がほとんどとなりました。

 近年は、コロナ感染の拡大防止の影響もあり、その規模、参加人数は年を追うごとに小さくなっていきました。そして今年、出席された被爆者はわずか2名のみ。当事者以外の出席者は私を含む被爆者2世が4名、被爆者の家族が5名、これに行政の担当者、来賓の方が数名のみとなりました。広島市長や長崎市長などから寄せられる「平和のメッセージ」を代読する人の確保さえままならないのが現状です。

 私は幼い頃、胡坐をかいた父の膝の上に座り、広島原爆投下のその日のできごとを何度か聞いた記憶があります。

 昨日あったことのように話す父、朝、校舎と校舎の間を歯磨きしながら歩いていた時に閃光が周囲を覆ったこと、その後の爆風で身体が吹き飛ばされ校舎の壁に叩きつけられ気を失ったこと、気づくと窓ガラスの破片が身体中に突き刺さり鮮血にまみれていたこと、自分を介護してくれていた仲間たちが放射線を浴びたことで、その日の夜から急に容体が悪くなり次々と死んでいったこと、仲間うちで生き残ったのは、父ともう一人のみだったこと・・・など。

 不思議なことにこれらの記憶は、私自身が齢を重ねるにつれ年々鮮明になっていきます。父の話が途切れる場面や、時折一息つき目線を遠くにやる仕草まで。

 父の口から直接伝えられたあの日のできごと、被爆者であった父は、幼い子どもたちにどんな思いで話を聞かせていたのだろうかと、今になってその胸中を推し量る自分がいます。

 今、他国を圧倒するために核による威嚇が現実のものとなっています。

 私は、被爆者2世としてどうするべきか・・・。来年は、終戦80年目の夏を迎えます。

 

会員登録