【調査研究:対話による人権学習】ようこそ!ふらっとカフェへ
はじめに
鳥取県人権文化センターでは、今夏より鳥取県立人権ひろば21“ふらっと”の交流スペースを主な会場に、対話型の人権学習「ふらっとカフェ」を自主開催しています。
ふらっとカフェとは鳥取県人権文化センターが「哲学カフェ※」を参考に考案した対話型の人権学習です。親しみを持ってもらえるよう「ふらっとカフェ」と名付けました。参加者全員で1つのテーマ(問い)についてゆっくりじっくり対話し、学びを深めていきます。知らないことを新たに知る場ではなく、知っている(と思っている)ことや当たり前だと思い込んでいることを改めて問い直す場です。結論を出したり、合意形成したりする必要はありません。「考えること」「探求すること」、その楽しさと難しさを味わいましょう。
※「哲学カフェ」…進行役がいて、テーマを1つ設け、参加者同士で話して聴いて考える場。 |
おおまかな流れ① 進行役(当センター専任研究員)が、ふらっとカフェの趣旨とルールを説明。② 「ふらっとネーム」(各自が呼んでほしいこの場限りの名前)を考え、名札を作って自己紹介。
③ 進行役がテーマを発表。進行役、あるいはテーマを考えた人が、その理由を説明。 ④ 発言したい人にコミュニティボールを渡してスタート。このボール(当センターではミニクッションを使用)を持っている人が発言する。次に話したい人は挙手したり声をかけたりしてボールをパスしてもらう。 ⑤ 進行役も対話に加わりながら、適宜、以下のことを行う。 ⑥ 時間が来たら潔く終了。 |
1.今年度の実績
今年度、当センターが自主開催した(開催予定だった)ふらっとカフェの日時とテーマは以下のとおりです。
日 時 | テーマ | 備 考 | ||
1 | 6月23日(水) | 14:00~15:30 | 女子力って何? | |
2 | 7月15日(木) | 〃 | 愛国心って何だ? | |
3 | 7月28日(水) | 〃 | 幸せの定義 | 新型コロナウイルス 感染拡大のため中止 |
4 | 8月18日(水) | 〃 | 同調圧力!? | |
5 | 8月25日(水) | 〃 | 我慢は美徳か? | |
6 | 9月7日(火) | 〃 | 愛は地球を救えるか? | |
7 | 9月28日(火) | 〃 | 私らしさ!? | |
8 | 11月12日(金) | 〃 | “笑い”と差別の境界線 | |
9 | 11月21日(日) | 10:00~12:00 | 幸せの定義 | |
10 | 12月16日(木) | 19:00~20:30 | 人の肩書きが与える影響は? | オンライン開催 |
11 | 12月26日(日) | 10:00~12:00 | 「できない」より「できる」方がいい? | 大雪のため中止 |
(2021年12月28日時点)
募集人数は各回7人までとし、進行役を務める当センター専任研究員を含め、10人以下の少人数でじっくり対話をしています。
2.対話はどう展開される?
現在のところ、ふらっとカフェのテーマは当センターの専任研究員が決めています。カフェ当日までに、進行役を務める研究員とカフェに参加する研究員とで打合せを行います。その際、テーマについての話し合いもします。なぜこのテーマを選んだのか、このことについて自分はどう思っているのか、最近このテーマに関係する記事を読んでこう思った、自分にはこんな経験がある、このことの背景には何があるだろうか等、簡単な打合せのつもりが、すでに頭がグルグル、楽しいような疲れるような、対話の渦に巻き込まれています。
勿論、私たちが打合せで話したことをふらっとカフェで全て披露したり、参加者を私たちと同じ思考のルートに導こうとしたりはしません。この日、この時、このメンバー、「今、ここ」で生まれる対話を味わいます。
では、これまでのふらっとカフェでどのような対話が生まれたでしょうか。事例をご紹介します。
【事例】2021.11.21(日) テーマ:「幸せの定義」何を幸せと感じるかは人それぞれ。とはいえ、人権保障的に「みんなちがってみんないい」でいいのだろうか?今日のテーマは「幸せの定義」。定義と言うからには、みんなが納得できる、万人に適用できる「幸せ」とは何かを考えたい。 |
● 生活保護のことが頭に浮かんだ。まず、健康で文化的な最低限度の生活が保障される必要があるのでは?
● 最低限度の生活ってどの程度だろう?
● 衣食住に不安があるかないかとかかな?「明日、食べられるだろうか」といった不安がないとか。
● 生命の維持ができる、そこに不安がないということか。
● 単に衣食住が保障されているというだけでは幸せとは言えないかもしれない。例えば車1つとっても、仕事や買い物など生活をするために必要だからというだけでなく、たまにはドライブして、きれいな景色を見て、気持ちが明るくなる。そんな風に精神的な安定を得て幸せを感じるためにも、車は必要じゃないかと思う。
● なるほど。生活保護について考える時に、車のことをそう考えたことはなかった。
● 「健康で文化的な」をどう捉えるか。国によって異なるのではないか。
● 日本は文化の意味を狭く捉えがちではないだろうか。文化=芸術、芸能のように。
● 日本では文化芸術などは贅沢と捉えられがちだ思う。
● 日本は美術館や博物館の入場料が高い。コンサートの料金も。そこに行くこと自体ハードルが高いと思う。伝統芸能もそうだ。余裕のある人のものになっているかも。
● 贅沢だと思われているからか、コロナ禍では「不要不急」とされた。
● お金に余裕があるかないか。お金以外のところの精神的な安心があるかどうか。それをどう手に入れるか。
● お金以外のところだと、人との関わりの中で自分が認められるとか、ここに居てもいいんだとか、生きていていいんだと実感できることも大事なのではないか。
● 自分が必要とされているという実感。
● 自分が必要とされているという実感は大切だと思う一方で、「まやかしの幸せ」につながることもあるのではないかと思う。例えば、DVの被害者。相手からどんなにひどい暴力を受けていたとしても、「この人には私が必要なんだ」「この人には私がいなきゃダメなんだ」と思い込み、それを「幸せ」だと感じていたら…。「そんなのは幸せじゃない。まやかしだ!」と言っていかないといけないのではないか。
● 何を幸せと感じるかは人それぞれだが、DVのようなことまでも「その人が幸せなら、それでいいんじゃない?」「みんなちがってみんないいだもんね!」「私はこれで幸せなんだから放っておいてよ」では、人権保障的にはダメなのでは。
● 抑圧された状態で、まやかしの幸せを感じながら生きるのではなく、心身の安全が保障された上で、やはり個人として大事にされているか、尊重されているかというのが、幸せの定義を考える1つのポイントなのではないか。
● 自分が必要とされているかどうかを、誰かの、あるいは社会の役に立つか立たないかで考えることもあるのでは。「○○ができるから自分は役に立つ」=「自分は必要とされる存在」、「○○ができないから自分は役に立たない」=「自分は必要ない存在」というように。
● それは、日本の文化というかメンタリティーにも関わることのような気がする。世間体とか、人様に迷惑をかけてはいけないとか、「恥」の文化とか。最初に生活保護の話が出たが、生きていくために必要な権利のはずなのに、世間体が悪いとか恥だと思われたり、バッシングもあったりする。
● 世間体を気にしていると、個人を尊重するとか、個人の幸せは後回しにされてしまう。
● 結婚差別もそうだと思う。例えば、子どもにとっての幸せが親にとっては不幸せみたいな。
● 「子どもにとってはこれが幸せ」とか、「これが女の幸せだ」とか、個人ではなく属性で幸せ不幸せが語られることもある。
● マイノリティであることで制約があるというか。
● みんなの話を聴いていると、子どもの虐待防止の活動で大切にしていることと同じで、安心、自信、自由が必要なのではないかと思う。個人が、安心して、自信を持って、自由に生きられることが幸せにつながるのではないか。
● なるほど、納得。どんな時に安心できるか、どうしたら自信を持てるか、自由と自分勝手とはどう違うかなど、さらに考えたいテーマができた。
……… 対話はさらに続く
この日のメンバーは、ふらっとカフェの“常連さん”ばかりで、終始リラックスした雰囲気の中、休憩を挟みつつたっぷり2時間、テーマについて深めることができました。各々がたくさん意見を述べましたが、それ以上に、「聴くこと」が大切にされていたと感じました。というのも、進行役が促さなくても、「さっき○○さんが言っていたことと関連するんだけど」「○○さんの意見とはちょっと反対の意見かもしれないけど」「みんなの意見を聴いていて、こういうことかなと思った」「前回違うテーマでカフェをしたときに、○○さんが△△と言っていたが、今日のテーマともつながっているように思う」等、他者の意見と関連づけながら話す場面が多かったからです。他者の意見を軽んずることなく、しっかり吟味し、協力してテーマを探っていく姿は、正に人権尊重の態度であると感じました。
3.「人権学習の場」の課題
ふらっとカフェ誕生のきっかけは、2018年度から2019年度にかけて「今後の部落問題学習をどう展開するか」をテーマに実施した調査研究でした。鳥取県内の市町村等に聞き取り調査を行った結果、部落問題学習の機会、特に「語り合う」学習が減少していること、多くの場合、語り合うはずが語り合いになっていないことが明らかになりました。
部落問題について対面で「語り合う」場合、「参加者の発言が少ない」「下を向き、発言することを暗に拒否している」「同じ人ばかりが話してその人の講演会のようになっている」「司会者が困って一人で場をつないでいるか、特定の人にだけ話を振っている」等、語り合う場を設けているはずが、実は、「語り合いになっていない」ということが往々にしてあったのではないでしょうか。 また、語られた内容の多くが一般論や観念的な意見であり、個人の経験や実感に基づいた話や疑問、本音が出されなかったり(出しにくかったり)、対立が起こらないことを願いながら、誰かが“いつものように”まとめたりして、「無事終了」という場合はなかったでしょうか?~中略~ そこで、「語り合う」学習の場をより深いものにするために、「対話」に注目してみたいと思います。 |
(鳥取県人権文化センター『人権学習資料37 今後の部落問題学習をどう展開するか』(2020年)p.22)
改めて「対話」とは何でしょうか。河野哲也著『人は語り続けるとき、考えていない 対話と思考の哲学』から引用します。
『対話とは、真理を求める会話である。対話とは何かの問いに答えようとして、あるいは、自分の考えが正しいのかどうかを知ろうとして、誰かと話し合い、真理を探求する会話のことである。ただ情報を検索すれば得られる単純な事実ではなく、きちんと検討しなければ得られない真理を得たいときに、人は対話をする。それは、自分を変えようとしている人が取り組むコミュニケーションである。』 |
(河野哲也『人は語り続けるとき、考えていない 対話と思考の哲学』岩波書店(2019年)p.2)
『自分を変えようとしている人が取り組むコミュニケーション』とあります。
長年にわたって取り組まれてきた部落問題学習や同和教育でも、自己変容や自己変革、つまり、差別があり続ける社会の中でどのような意識や態度を身につけているか、自らを見つめ直そう、自分を変えようということは言われてきました。しかし、語り合うスタイルの部落問題学習(市町村等への聞き取り調査では、特に小地域懇談会)の課題を見ると、対話が成り立っていない、コミュニケーションが十分でない状況があるのがわかります。つまり、自己変容につながる学習の場になっていなかったと言えるのではないでしょうか。
ふらっとカフェも、紹介した事例のように上手くいったケースばかりではありません。進行役の力量不足によるところが大きいですが、他者の意見や考えを軽く扱ったり、優劣をつけたり、誰かに忖度して反対意見を言わなかったり等、「これは、対話とは言えないな」と思う時もあります。
これまでのふらっとカフェの実践を通して、人権学習の場のあり方について改めて考えています。それは、人権啓発に携わる私自身を改めて問う機会にもなっていると感じています。「何を学ぶのか」だけでなく、「どう学ぶのか」を、今後もふらっとカフェを重ねながら探っていきたいと思います。